当学区は、日立市の中央部に位置している。油縄子は、明治22年(1889年)市町村制・府県制の公示の際、諏訪、油縄子、 成沢が鮎川村になった。
当時の油縄子は国道沿いの街村に商家が並び、他の大部分には農家が点在していた。その後、鮎川村地域に日製の社宅ができ人口が増加し始めた。
昭和14年(1939年)に日製・多賀工場が操業されるに及んでこの地域は一変していった。河原子町、国分、鮎川、坂上各村を解消して多賀町が誕生、昭和30年(1955)2月15日、1市2町4村の合併によって鉱工業都市、日立市が茨城県第一の都市として発足した。
日立市の拡大発展とともに油縄子地区も著しい発展を遂げ、大学通り(学園通り・中央線)に面して各種住宅の建設、高校・中学校等教育施設の設立が続き、人口は増加の一途をたどった。
そうした動きと並んで住民はこの地に小学校を設立しようと働きかけ、旧多賀町議会で油縄子小学校設置を決議した。
学区は鮎川町1丁目から6丁目、多賀町4丁目・5丁目、諏訪町1丁目、 桜川町3丁目、国分町1丁目から3丁目とした。周囲の成沢小、河原 子小、大久保小の学区の一部を学区に確定し、合併日立市の誕生した昭和30年4月1日に開校し今日に至っている。
この地域は、住宅地、商店街と幼・小・養・中・高校・大学などの教育施設がある文化学園地域と日製国分工場・日立化成山崎事業場(桜川)などの大工場、関連工場群とで成り立っている。学区も社宅用地として発展してきたが、近年社宅の取り壊しに伴い、児童数が減少し、社宅跡地は商業施設等への転用が進んでいる。